第二話：「お前に継いでほしい」と言えない社長と、「やります」と言えない右腕。
千葉将志税理士事務所代表 千葉将志
目次
- 導入：信頼が、壁になることもある
- 【事業承継物語：本編】
- 社長室の、ため息
- 送別会の、一言
- 翌朝の、アイコンタクト
- 【プロの視点：今回の物語から学ぶ３つの教訓】
- 教訓①：親子の承継より難しい？「尊敬と遠慮」という名の壁
- 教訓②：全ての躊躇の根源。「株式」という名の象
- 教訓③：社長がすべき、たった一つの「儀式」
- まとめ：今日の物語からの、あなたへのメッセージ
- 行動喚起：決意を、具体的な「一歩」へ
導入：信頼が、壁になることもある
会社を、誰に託すか。 親族に候補がいない時、多くの経営者の脳裏に浮かぶのは、長年、苦楽を共にしてきた「右腕」の顔でしょう。
「あいつになら、安心して任せられる」
その信頼は、何物にも代えがたい、会社の財産です。 しかし、皮肉なことに、その「信頼」や「尊敬」が、時として事業承継を阻む、最も分厚い壁になることがあるのを、ご存知でしょうか。
これは、血の繋がりはないけれど、誰よりも強い絆で結ばれた、社長と番頭の物語です。
【事業承継物語：本編】
社長室の、ため息
夕暮れの社長室。株式会社タカハシ食品の創業者、高橋吾郎（68）は、デスクに飾られた一枚の写真を、静かに見つめていた。20年前、会社の創業記念パーティで撮った集合写真だ。前列で自分の隣に立ち、少し緊張した面持ちで笑う、若き日の佐藤健司（現・工場長 52歳）の姿がある。
「…佐藤しか、いないんだがなぁ…」
ポツリと漏れた独り言は、西日に溶けて消えた。引退は、もう待ったなしだ。しかし、吾郎は受話器を取れない。佐藤を社長室に呼び、「この会社を、お前に継いでほしい」その一言を切り出すことが、どうしてもできなかった。
株だ。会社の魂とも言える株式を、どうするのか。佐藤に、そんな大金を工面させるのか。彼の堅実な人生に、銀行からの借金という重荷を、俺が背負わせていいのか。
「……すまん」
吾郎は、写真の中の若き佐藤に、そう呟いた。
（……従業員承継における最初の壁。それは、後継者の能力や覚悟を疑う気持ちではない。むしろ逆。後継者の人生を想う「優しさ」と「罪悪感」なのである）
送別会の、一言
その夜、定年退職する事務員の送別会が、駅前の居酒屋で開かれていた。 会が盛り上がり、宴もたけなわの頃。主役の事務員が、涙ながらに挨拶をした。 「本当に、この会社で働けて幸せでした。高橋社長、そして、いつも現場で助けてくださった佐藤工場長…ありがとうございました！」
その言葉に、他の社員たちが「待ってました！」とばかりに声を上げる。 「部長、次は社長ですよ！」「日本の未来は、いや、タカハシ食品の未来は、工場長にかかってます！」
酔った吾郎は、満面の笑みで立ち上がり、隣に座る佐藤の肩を、バン！と力強く叩いた。 「そうだそうだ！ 佐藤、あとは、頼んだぞ！」
その瞬間、場の空気は最高潮に達した。しかし、当の佐藤は、顔を真っ赤にしながら、困ったように笑うだけだった。 「やめてくださいよ、社長。俺みたいな現場一筋の人間には、務まりませんよ」
「またまたー！」「謙遜しちゃって！」 社員たちの陽気な声が飛び交う中、吾郎と佐藤の目線が、一瞬だけ、交わった。笑っているはずなのに、どちらの目も、全く笑っていない。尊敬と、遠慮と、そしてほんの少しの諦めが混じった、気まずい空気が、二人の間に流れた。
翌朝の、アイコンタクト
送別会の翌朝。 吾郎が工場を見回っていると、佐藤が、誰よりも早く出社し、黙々と機械のメンテナンスをしていた。その背中は、昨夜の困惑など微塵も感じさせない、いつもの、頼もしい工場長の背中だった。
佐藤が、ふと顔を上げる。そして、少し離れた場所から自分を見つめている吾郎に気づいた。 佐藤は、その場で静かに頭を下げた。 吾郎も、ただ、黙って頷きを返した。
言葉はない。しかし、そのアイコンタクトには、全ての想いが詰まっていた。
（わかっている。あなたの期待も、優しさも） （わかっている。お前の覚悟も、そして、お前の遠慮も）
二人の間にある「尊敬」という名の壁は、昨夜よりも、さらに高く、分厚くなったように思えた。
【プロの視点：今回の物語から学ぶ３つの教訓】
社長、この物語は、決して他人事ではないはずです。信頼する従業員への承継には、親子の承継とは全く違う、この「尊敬と遠慮」という名の、厄介な壁が立ちはだかります。
教訓①：親子の承継より難しい？「尊敬と遠慮」という名の壁
親子の承継では、感情的な対立が問題になることが多々あります。しかし、従業員承継では、むしろ逆です。高橋社長と佐藤部長のように、お互いを尊敬し、気遣う気持ちが強すぎるために、本題を切り出せなくなるのです。
- 社長の心理：「彼に金銭的な苦労をかけさせたくない」「断られたら、今の良好な関係が壊れてしまうかもしれない」
- 従業員の心理：「自分なんかが社長の器ではない」「社長の期待に応えられなかったら申し訳ない」 この「ポジティブな感情」が生み出す膠着状態は、ネガティブな感情の対立よりも、解決が難しい場合があります。
教訓②：全ての躊躇の根源。「株式」という名の象
この物語の登場人物が、本当に言えないでいることは何でしょうか。それは、会社の**「株式」**をどうするか、という問題です。部屋の中に巨大な象がいるのに、誰もそのことに触れようとしない（Elephant in the room）状態なのです。 従業員承継を考える時、この「株式の対価」という現実的な問題を抜きに、精神論だけで話を進めようとすると、必ず失敗します。「お前に任せる」という言葉は、「数千万円の借金を、お前は背負えるか？」という問いと、ほぼ同義だからです。
教訓③：社長がすべき、たった一つの「儀式」
では、どうすればこの壁を壊せるのか。社長がすべきことは、たった一つです。 それは、居酒屋のようなインフォーマルな場ではなく、社長室で、たった二人きりで、正式な「交渉のテーブル」を用意することです。 そして、ただ「頼む」と言うのではありません。後継者の不安を払拭するため、社長自身が考えた「株式譲渡のプラン（MBOスキーム案など）」を、たとえ叩き台であっても良いので、具体的に提示するのです。 「佐藤、お前に会社を託したい。そのために、株については、例えばこんな方法を考えている。これはあくまで案だが、一緒に考えてくれないか」 この「儀式」こそが、後継者に対する最大の敬意であり、「あなたの人生を、私も一緒に背負う覚悟がある」という、社長の無言のメッセージになるのです。
まとめ：今日の物語からの、あなたへのメッセージ
事業承継は、お金や権利だけの話ではありません。 長年かけて築き上げた、人と人との信頼関係、その集大成です。 しかし、その美しい信頼関係が、時として、未来へ進むための足枷になることもある。
大切なのは、その「見えない壁」の存在に気づくこと。 そして、尊敬や遠慮といった感情を一度脇に置き、一人の経営者と、一人のビジネスパーソンとして、会社の未来という「議案」について、正式なテーブルで向き合う勇気を持つことです。
物語の終わりに
社長。 この記事を読んで、あなたの心に灯った、小さな気づきの炎。 それを、決して思い出や気の迷いで終わらせてはなりません。具体的な「一歩」に変えなければ、またいつもの忙しい日常に、その炎はかき消されてしまいます。
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